2009年11月1日(日)日曜サービスで語られたメッセージ。
スピーカー; Bishop Walker
テーマ; まだ何かが足りない
聖書の一節; マタイ伝 17章:14-19, 1-6, エペソ人への手紙 4章:11-12
イエスは言われた、「何という不信仰な、曲がった時代であろう。いつまで、私はあなた方と一緒におられようか。いつまであなた達に我慢ができようか。その子をここに、私のところに連れてきなさい。」イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時癒された。(マタイ伝. 17:17-18)
イエスは言われた、「あなた方に子が癒せなかったのは、信仰が足りないからである。もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』といえば、移るであろう。このように、あなた方にできない事は何もないであろう。(マタイ伝. 17:20)
イエスなら病をもった子を癒せ、弟子では直せなかった。そこにどういう違いがあるのか。それは、
1. 不信仰
2. 人の意にさからう、意固地である
3. 毎日の祈り
信仰、Love Fellowship Tabernacle における説教は、あの世の救いや天国にいくため悔い改めを諭すものではない。日々の生活の中において、自分の精神を強くし、自分の目標や目的、自己実現にむけて強靭な精神力と忍耐を培う教育の1つである。
信仰、念ずればかなう、、、世に名だたる経営者の多くも口にする言葉。
単に願う、祈る、のは、棚から牡丹餅を待つ日和見主義、その場限りの快楽や幸運を狙うものだけ。
祈りに祈りを重ね、自分の思うことを何度も何度も頭にイメージする、それが信仰になり、信仰が信仰を重ねて、自己実現、夢実現への強靭な精神力と忍耐力が養われる。
ちょっと祈ったくらい、ちょっと神様にお願いしたくらいで、思いがかなわない。。それはあたりまえ。それで泣き言を言ったり、神様に不平を言う、幼児性を戒める。
忍耐こそが精神の熟成であろう。それが大人になる、ということかもしれない。
失敗を繰り返し、涙にくれた後に、みつけた一つの問題解決方法。
今、私はLearner として、信仰生活を送っている。「そんなことは、あらへんやろう。そんなことは、できひんわ。」信仰を繰り返す生活の中で、そういう言葉はしだいに薄れていく。そう薄れていくように、精神を鍛える。何事もポジティブに。そして、強靭な祈りと自信の元には不可能なし、という精神を培っていくのである。
2009年11月8日日曜日
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