* スピーカー; Elder Harris
* テーマ; Looks like getting worse but still better (悪くなっているように見えるかもしれんが、そうではなくよくなっていってるよ)
* 確認した聖書の節; マルコによる福音書第5章:22-43節, イザヤ書第30章19節
イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた。「恐れることは無い。ただ信じなさい。」(マタイ第5章36節)
シオンにおり、エルサレムに住む民よ、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて必ずあなたに恵みを施される。(イザヤ書第30章19節)
* パスターからのメッセージ;
信仰によるのみ。すでにパワーはあなたの手の中にある。
何も機能しないかのようにみえるが、そうではない。
災いやネガティブ思考は、貴方がどのように感じ、何をどう見るか、を常に見ており、すきあらばあなたの脚をひっぱり、行くてを阻もうとするのである。
今こそチャンスの時、ほしいものを手に入れるチャンスの時である。
イエスは全てを面倒みてくださる。ただただ、彼を信じること。
マタイによる福音書第5章にみられるたとえ話~誰もが会堂司の娘は死んだものと思っているので、いまさらイエスの手を煩わして何になるのか~という話は、状況はもう変わらないのに、今更何をあがいているのか、何を祈っているのか、状況はもう終ったのに、何を今更復活させようと祈っているのか、という言葉にも置き換えられる。しかし、聖書にあるように、イエスは「恐れることはなく、ただ信じよ。」といい、会堂司の娘の名前を呼んで娘の目をさまさせた。それは、終ったと思われる状況でも、心配することなく、ただ神に祈り信じれば状況は変わる、ということだ。
全ては信仰による。
* 私のコメント;
「信仰」というと硬く、宗教くさい言葉になってしまうけれど、自分を信じること、神様を信じること、自分のやってきた努力、願い、経験、夢、希望を信じて迷うことなくまっすぐ前進すること、ということなんですね。「どうせこんなことやったって誰も見るわけじゃないし、評価されるわけじゃないし。。」「どうせやっても無駄だし。。。」こういうことを思わず、こういう思考は捨てて、「いつか日の目を見るときがある。その時まで、辛抱するのは大変だけど、精一杯のことはやろう。やっておこう。」というポジティブな気持ちになることなんですね。
このような思考がいかに、自分自身の気持ちと脳をすっきりさせ、顔に笑顔を戻してくるか、それはやった本人がわかります。
すぐネガティブ思考に陥りそうになる人は、最初結構努力が必要だと思う。ポジティブ思考になることが怖いから。ポジティブ思考になることは、何となく何も考えてないバカっぽさを感じるかもしれないから。だけど、世の中これで回っていることが多く、そうしたバカっぽさを感じる人がどんどん、自分をぬいて先に進み、幸せをつかみとっているのを見て、やきもちを焼いたり、落ち込んだりするんだったら、いっそのこと波にのって、自分も楽チンになったほうがいいじゃない。
あっけらかんとポジティブになること、今まで怖くてできなかったことをやってみる。
聖書に書いていることは単なる物語ではなく、何百年も語り継がれ、大切にされていることを思えば、「信仰の奇跡」というものがいつの世にもあるからだろうと思う。「こうすれば、こうなる」という指南書であると、私は思います。
疑う前に好奇心をもってまっすぐ前に向かっていく子供の目は輝いていますね。そこに希望があり、未来がある。自分はこうしたい、ということを信じて貫きとおす。
自分のやってきたこと、経験、努力、忍耐、涙、後悔、希望、志、すべてを肯定し、信じて、未来へ向けていく。私は自分の未来が変わると感じます。
「思いは通ず」。いかに明るく強く、忍耐強く思いを貫きとおしていくか、それで未来は、状況は変わると、思います。
2010年4月25日日曜日
2010年4月24日土曜日
2009年2月5日 日曜サービスからのメッセージ
* スピーカー; Bishop Walker
* テーマ; テスト期間 - Realizing/ Testing time
* 確認した聖書の節; マタイによる福音書第25章14~30節
大体にして、持つ者は与えられて、より豊かになるが、持たない者は持っているものまでも取り上げられるであろう。(マタイによる福音書25章29節)
* スピーカーのメッセージ;
大きな夢を掲げ、その実現のために行動を起こせ。
神をたたえ、より豊かになろう。神は我々がより豊かになることを望んでおられる。
いかに自分を豊かにしていくかを学んでいく。神が我々それぞれに与えたもうものを、どうハンドルしていくか常に考えること。
人生は日々テストである。それら神から与えられた試練をテストとし、テストを通じていかに自らを豊かにするかを考え学ぶのである。
* 私のコメント;
2月から春にかけての時期、特に思い出す、私の大好きな聖書の節話。
ある家の主人が旅に出るとき、僕たちに自分の財産の一部をそれぞれの能力に応じて分け与え、彼らがその財産をどのように用いたか、という話です。
5タラントを渡された者は商売をして他に5タラントを儲け、2タラントを渡された者は同様に2タラントを儲けた。しかし、1タラントを渡された者は、土の中にそれを隠したまま、一銭とも儲けはしなかった。
そして主人が帰宅して、彼らのリポートを聞き、5タラント、2タラントを儲けた者にはさらに領有できるものを与えたが、1タラントを渡されそれを運用しなかった者に対しては、その1タラントを取り上げ家から追い出された。
世の中を見ると、確かに、いわゆる金持ちはどんどん金持ちになり、貧しいものは出てゆくばかりになることが大いにして見受けられます。自分のことを振り返っても、お金のないときに限って、体調を崩して医者にいかねばならなかったり、歯医者に行かねばならなかったり、と予想外の出費が出てくるものです。保険に入っているときは何事もなかったのに、保険に入らなくなったら何かしら支障が起こって余計なお金が出て行く。
著名な歌手、Jay-Z, Beyonce, Maria Careyなど見ても、彼らはマルチプル、倍々に大いに儲けていってます。
我がBishop Walkerを見ても、1つの成功が次の成功を生み出し、そしてさらなる成功を呼んでいます。今や全米各地に説教旅行に出かける豊かさです。
一方自分はどうか、というと、
どちらかというと私、幼少の頃よりいろんなものを抱えたままにしておく方で、応用、それらをすぐに活用して何かをする、というタイプではありませんでした。
鉛筆でもノートでも洋服でも、きれいなものを手に入れると大事にしまって来る時のためにとっておくタイプ。でも、来る時が来るともったいなくって結局使わずじまい。使わずじまいにタイプやデザインが古びてしまい利用できなくなる。宝の持ち腐れですね。
そんなものが机の上、たんすの中、倉庫の中にうずたかく積み上げられて場所をとってしまい、がんじがらめになって身動きがとれなくなっていきます。パソコンと同じですね。不要なものをどんどんハードに溜め込んでいくとパソコンの動きが悪くなり、不具合の原因ともなります。
与えられたものは即活用する。知識も、モノも、食べ物のように常にフレッシュでないと、それらをイカすことはできないんですね。
富んでいく人を見るにつけ、いつも思い出す話です。
* テーマ; テスト期間 - Realizing/ Testing time
* 確認した聖書の節; マタイによる福音書第25章14~30節
大体にして、持つ者は与えられて、より豊かになるが、持たない者は持っているものまでも取り上げられるであろう。(マタイによる福音書25章29節)
* スピーカーのメッセージ;
大きな夢を掲げ、その実現のために行動を起こせ。
神をたたえ、より豊かになろう。神は我々がより豊かになることを望んでおられる。
いかに自分を豊かにしていくかを学んでいく。神が我々それぞれに与えたもうものを、どうハンドルしていくか常に考えること。
人生は日々テストである。それら神から与えられた試練をテストとし、テストを通じていかに自らを豊かにするかを考え学ぶのである。
* 私のコメント;
2月から春にかけての時期、特に思い出す、私の大好きな聖書の節話。
ある家の主人が旅に出るとき、僕たちに自分の財産の一部をそれぞれの能力に応じて分け与え、彼らがその財産をどのように用いたか、という話です。
5タラントを渡された者は商売をして他に5タラントを儲け、2タラントを渡された者は同様に2タラントを儲けた。しかし、1タラントを渡された者は、土の中にそれを隠したまま、一銭とも儲けはしなかった。
そして主人が帰宅して、彼らのリポートを聞き、5タラント、2タラントを儲けた者にはさらに領有できるものを与えたが、1タラントを渡されそれを運用しなかった者に対しては、その1タラントを取り上げ家から追い出された。
世の中を見ると、確かに、いわゆる金持ちはどんどん金持ちになり、貧しいものは出てゆくばかりになることが大いにして見受けられます。自分のことを振り返っても、お金のないときに限って、体調を崩して医者にいかねばならなかったり、歯医者に行かねばならなかったり、と予想外の出費が出てくるものです。保険に入っているときは何事もなかったのに、保険に入らなくなったら何かしら支障が起こって余計なお金が出て行く。
著名な歌手、Jay-Z, Beyonce, Maria Careyなど見ても、彼らはマルチプル、倍々に大いに儲けていってます。
我がBishop Walkerを見ても、1つの成功が次の成功を生み出し、そしてさらなる成功を呼んでいます。今や全米各地に説教旅行に出かける豊かさです。
一方自分はどうか、というと、
どちらかというと私、幼少の頃よりいろんなものを抱えたままにしておく方で、応用、それらをすぐに活用して何かをする、というタイプではありませんでした。
鉛筆でもノートでも洋服でも、きれいなものを手に入れると大事にしまって来る時のためにとっておくタイプ。でも、来る時が来るともったいなくって結局使わずじまい。使わずじまいにタイプやデザインが古びてしまい利用できなくなる。宝の持ち腐れですね。
そんなものが机の上、たんすの中、倉庫の中にうずたかく積み上げられて場所をとってしまい、がんじがらめになって身動きがとれなくなっていきます。パソコンと同じですね。不要なものをどんどんハードに溜め込んでいくとパソコンの動きが悪くなり、不具合の原因ともなります。
与えられたものは即活用する。知識も、モノも、食べ物のように常にフレッシュでないと、それらをイカすことはできないんですね。
富んでいく人を見るにつけ、いつも思い出す話です。
愛について
今、愛することを通じて、信じること、耐えること、明るくなること、頑張ること、辛抱すること、動揺しないこと、心を強く保つこと、心をきれいにもつこと、を学んでいます。愛は強くする、かしら。
ほぼ100%自分の理想に近い男性と出会い、彼のそばにいられることを祈ってます。
相手は私のことただの遊び相手としか見ておらず、何度もあきらめようと思いました。
最初は頻繁に会っていたので、相手も私のこと好きだと思いました。でも違っていたようです(苦笑)。
私のこと好きですか、彼女としてつきあう気ですか、、なんて、つきあう最初に質問・確認する、なんて知らなかった。でも、普通そんなことするんですかね。まあ、しっかりした女性はそのあたり、うまくコミュニケーションをとれるようですが、私の場合は感情に流され、確認をしませんでしたね。
相手を思う温度差が違えば、不安になり、自分のフラストレーションを相手にぶつけたことも何度かあります。
私のひとりよがりなフラストレーションに相手が辟易するのは当たり前。遠のいていっても仕方のないことですね。それでも、不安定な気分が続いていたときは、相手をおっかけて連絡を取り続けていました。縁が途切れるのが怖かったから。精神のコントロールを失った特にこの1年は、お互いにとって痛く辛すぎる時間でしたね。相手のことをひどく傷つけました。好きなのにね。
聖書勉強を通じ、特にこの1ヶ月半心の芯が自立してきつつあります。
まず、「神様を信じること」に心を向けています。聖書関連の言葉で言えば、Faith in God always.
自分の努力、自分の思い、自分の忍耐、自分の他人への思いやり、自分のがんばり、を信じて必ずそれらは報われると強く思うことに、心のベクトルを向けています。
今まですぐにあきらめたり、努力から逃げて希望や夢を投げ出していましたから、それらを辞めにして自分を改革しようと思いました。米大統領オバマ氏のキャッチフレーズでもありました。「Change」。
自分を思ってくれないような男はさっさとあきらめて次のいいオトコを探す。
こんなオトコは、彼が言っているようにただ遊びだけであんたと付き合っている。
女は愛されるのがいい。
等々、いろいろ知人・友人からのアドバイスももらいました。そう、愛されることはどれほど素晴らしいことか。愛されようとするがあまり、彼との心の温度差が広がり、ひずみもどんどん大きくなっていきました。何でもtake take take。get get get。
愛されようと、好きになってくれそうな男性もその間探しました。
だけど、やっぱりまだ彼に帰結しますね。彼のドコがいいのかね。でもMy soul says Yes! なんですね。そこで、じゃあ、思いっきり相手を愛してみることにしました。まずは愛していくことにしました。
私は両親からとても愛されているということを確認しましたから、愛されるのは両親だけで十分だと思いました。
私以上に彼を思いやり、愛せる女性はいない、それくらい自信満々になれるよう愛を積んでいってます。別に相手に連絡をとってるわけでもなく、心の中と、毎日の祈りの中で確認するだけなので、相手にはわからないと思いますがね。相手からの音沙汰がなくなって、哀しく気持ちが揺らぐとき、まだあります。だけど、すぐに心がStand upします。以前のようにメソメソすることもなくなりました。
この人を幸せにしたい、という気持ち。
自分を強くし、自分を美しくさせてくれてます。
私がいつ何時でも彼の周りに笑顔を咲かせることができるようになった時、きっと新しいチャンスが来ると思います。
私をこういう気にさせたのが彼の魅力ですね。私にとって。
ほぼ100%自分の理想に近い男性と出会い、彼のそばにいられることを祈ってます。
相手は私のことただの遊び相手としか見ておらず、何度もあきらめようと思いました。
最初は頻繁に会っていたので、相手も私のこと好きだと思いました。でも違っていたようです(苦笑)。
私のこと好きですか、彼女としてつきあう気ですか、、なんて、つきあう最初に質問・確認する、なんて知らなかった。でも、普通そんなことするんですかね。まあ、しっかりした女性はそのあたり、うまくコミュニケーションをとれるようですが、私の場合は感情に流され、確認をしませんでしたね。
相手を思う温度差が違えば、不安になり、自分のフラストレーションを相手にぶつけたことも何度かあります。
私のひとりよがりなフラストレーションに相手が辟易するのは当たり前。遠のいていっても仕方のないことですね。それでも、不安定な気分が続いていたときは、相手をおっかけて連絡を取り続けていました。縁が途切れるのが怖かったから。精神のコントロールを失った特にこの1年は、お互いにとって痛く辛すぎる時間でしたね。相手のことをひどく傷つけました。好きなのにね。
聖書勉強を通じ、特にこの1ヶ月半心の芯が自立してきつつあります。
まず、「神様を信じること」に心を向けています。聖書関連の言葉で言えば、Faith in God always.
自分の努力、自分の思い、自分の忍耐、自分の他人への思いやり、自分のがんばり、を信じて必ずそれらは報われると強く思うことに、心のベクトルを向けています。
今まですぐにあきらめたり、努力から逃げて希望や夢を投げ出していましたから、それらを辞めにして自分を改革しようと思いました。米大統領オバマ氏のキャッチフレーズでもありました。「Change」。
自分を思ってくれないような男はさっさとあきらめて次のいいオトコを探す。
こんなオトコは、彼が言っているようにただ遊びだけであんたと付き合っている。
女は愛されるのがいい。
等々、いろいろ知人・友人からのアドバイスももらいました。そう、愛されることはどれほど素晴らしいことか。愛されようとするがあまり、彼との心の温度差が広がり、ひずみもどんどん大きくなっていきました。何でもtake take take。get get get。
愛されようと、好きになってくれそうな男性もその間探しました。
だけど、やっぱりまだ彼に帰結しますね。彼のドコがいいのかね。でもMy soul says Yes! なんですね。そこで、じゃあ、思いっきり相手を愛してみることにしました。まずは愛していくことにしました。
私は両親からとても愛されているということを確認しましたから、愛されるのは両親だけで十分だと思いました。
私以上に彼を思いやり、愛せる女性はいない、それくらい自信満々になれるよう愛を積んでいってます。別に相手に連絡をとってるわけでもなく、心の中と、毎日の祈りの中で確認するだけなので、相手にはわからないと思いますがね。相手からの音沙汰がなくなって、哀しく気持ちが揺らぐとき、まだあります。だけど、すぐに心がStand upします。以前のようにメソメソすることもなくなりました。
この人を幸せにしたい、という気持ち。
自分を強くし、自分を美しくさせてくれてます。
私がいつ何時でも彼の周りに笑顔を咲かせることができるようになった時、きっと新しいチャンスが来ると思います。
私をこういう気にさせたのが彼の魅力ですね。私にとって。
Bishop Guest preaching in NJ on 4/23/2010
Bishop WalkerがNJで、ゲストプリーチングを行いました。
@ Abundant Life Family Worship Center
259 George Street - New Brunswick, NJ
tel 732-545-4897
@ Abundant Life Family Worship Center
259 George Street - New Brunswick, NJ
tel 732-545-4897
2010年4月18日日曜日
4月18日 日曜サービスからのメッセージ
* スピーカー: Bishop Walker
* テーマ&サブテーマ: Look for the exit - Not just look for but to find something -
(出口を見つける~そして次のとるべきアクションを考える~)
* 確認した聖書の節: コリント人への第1の手紙10章13節, マルコによる福音書第5章21-39節,
イザヤ書第30章:1-2節
イエスがまだ話しておられる間に、会堂司の家から人々が来て言った。「あなたの娘は亡くなりました。この上に先生を煩わす必要はないでしょう。
イエスはその言葉を聞き流して、会堂司に言われた。「恐れることはない、ただ信じなさい。」
(マタイによる福音書第5章35~36章)
* Bishopからのメッセージ;
悲しみよこんにちは、苦労よこんにちは、そしてパワーよこんにちは。
恐れることなく、ただ信じることのみ ~ 恐れることなく先へ進め、恐れることなく事をやれ。
「恐れ」というが最も人の成長や行動を停滞させるものである。したがって恐れを払い、どんどん積極果敢に前進をせよ。
しばらくの間、われわれは「出口」を探していた。しかし、今日からはそれに加えて、出口を見つけるために、また出口が見つかった時どうするか、何をするか、というのを考えてみる。
今、その出口は「イエス・キリスト」(=信仰)である、ということをわれわれは聖書の一節から確認できる。
神を信じ、そして自分のやってきたこと、自分のスキル、自分の思い、自分の気持ち、自分の努力を信じて前進せよ。
* 私のコメント;
この日のサービスは、しょっぱなからエキサイティングなものでした。Praise & Worship team によるWorship songが3曲ほど歌われた後、通常ならマスクワイヤが数曲歌を披露すんですが、この日は1曲のみ。早々にBishop Walkerが会堂へ姿を現し、シャウティング。これにあわせてミュージシャンが参堂者の気持ちをあおるように演奏。ベースとドラム、パーカッションのビートの聞いたサウンドに、一同いてもたってもいられず、そここでダンシング&タッピング。感極まった人は祭壇前に出てきてダンシング。(私も1回か2回やったことあります) Bishop WalkerもJunior Pastor/ Crayもタッピング。あげくのはてはミュージシャン・マスターのジョアンが踊りだす。こうなったらチャーチ一同みんなして、忘我の境地に入るのでした。。。。。
かれこれ1時間ちょっとくらいの時間、こういう状態。
トランス状態に入った何人かが泣きさけび、踊り狂い、両手をあげて神を賛賀する。こうなった時、私たちは、Holy Ghostがその人に降りてきた、といい、非常にいいことだと見ます。そう、まさに神が降りてきた、ことになるんです。最初は白Tシャツを着た男性、続いてそこここでHoly Ghostが降りてきた人が声を上げます。そうすると、Bishopがそばへ行き、おでこの部分に手をおいて、なにやら言います。さらに、Healingが必要な人がBishopに問いかけられ、手をあげ、そこにDeaconやDeaconess、PreachearやPastorがそばへより、耳元で神の言葉をシャウティングします。
と、まあ、日本人が傍からみると、まじないや土着信仰の宗教儀式みたいに映って引いてしまうでしょう。何人か日本人もクワイヤーに入りたいとチャーチを訪ねたり、また旅行のついでに立ち寄る人もいますが、これを見て皆なひくんでしょうな。
でも、こういう場面は、私が訪ね歩いたアメリカ国内のアフリカン・アメリカンチャーチには結構見られるんですね。そして、こういうHealing Serviceの上に、力強いゴスペル音楽があるんだ、って言うことも、日本でゴスペル音楽をやってる人間には知ってもらいたいところですね。
Bishop Walkerは、今日何かこういうHealing的なものを感じたのでしょう。そのために、早くに会堂へ姿を現し、シャウティングしたのかもしれません。人々が恍惚状態になるにしたがって、今日は神が降臨してきた、そこここで、その存在を知らしめている、と言ってました。Bishopいわくは、古式うるわしスタイルを踏襲している昔ながらのチャーチでは、こういう光景、サービスはよく見られるということでした。
確かに日本人だけでなく、こういう光景になじみのない人間にとっては、まさに何か怪しげな宗教儀式に思えるかもしれません。だけど、いまだに科学やテクノロジーでは解明されない、まじないや信仰による治癒、奇跡というのはあるように私は思いますね。日本では「笑いが癌を治す」ということで「笑い道」なるものもあって、講演活動をしている人もいますが、やはり人間最後は「気持ち」の持ち方、向け方なんだと思います。現実に、こうした信仰、サービス内容によって、病気が克服できたり、昇進に見合えたり、豪勢な家がロッテリーであたったり(NYCがオファーする)する人がいるし、自分はこのチャーチに来てから運気が、人生の運があがった、という人がいるんですから、無視したり笑い飛ばしたりできないものです。
やっぱり、「信じる者は救われる」というのが私の結論です。
このHealing Serviceの後、ようやくBishopのpastor's preaching、聖書の一節を呼んでテーマに関する内容が語られました。
今日のBISHOPの語るポイントはただ1つ、「信仰」と言えるでしょう。
ただシンプルに神様を信じる。疑いのない澄んだ瞳で神様を見上げる。
そして、私は、「信仰」は多くの心身の傷や病を癒してくれる、克服してくれる薬だと、言います。
恐らく過去の私は、幸せになることを怖がっていたものと思います。だから、いつもマイナスのことばかり思っていました。だけど、幸せになればなるほど責任も多くなってきて、もう1ランク上の幸せに到達するために更なるチャレンジがあるんです。そうして、人間は、肉体と魂のスキルをアップさせていくんです。「幸せ」というのは人の欲求に応じる物で、留まるところをしらないと思います。「幸せ」とは自分の心の充足だと思います。1つ心が満足すれば、またもう1ランク上の充足を求める。そうして自分のスキルをどんどんアップしていくものと思います。
私は、「こうならないかもしれない」ということを思いながら過ごしてきて、それが当たり前になってしまい、「幸せ」を貪欲に追求することを自分でストップさせていたような気がします。だから、自分の肉体・精神のスキルも成長しないままストップしたように感じます。
「こんな人になりたいな」と思う人の目には、澄んだ輝きとまっすぐ前を見ている視線があります。
疑いなく、魂の充足のために前進・チャレンジしている美しさです。
約20年にわたる自分自身の停滞、そして特に過去3年の間におこった好きな人とのけんか、別れ、人間関係の破壊、鬱など痛みを通じて、「信仰」に返ってみようと思い、特にこの2ヶ月、聖書の言葉に親しむことと、神様に祈る、ことに時間を費やしています。
神様に自分の思いを委ねる、祈る、信じる。自分の思いがすぐにかなわないと、あるいは、自分の祈ってることが果たして神様に通じているのかどうかといぶかしげになるとき、祈ったって無駄や、、と思ってしまうときがまだあります。でも、ぐっとこらえて、「その時」が来るまで耐えるように心のベクトルを修正しています。そうすると、少しずつ、気持ちが軽く、むやみに泣くことも少なくなりました。心が少しずつ強くなっているような感じです。
まだまだ忍耐、鍛錬が必要です。でもあきらめてしまえば、祈ったって無駄やと思ってしまえば、また元の木阿弥で、ブラックホールに舞い戻りです。
自分を成長させたいので、頑張って踏ん張っています。
この踏ん張りは、いつか必ず、自分の欲求を満足させてくれる、自己変革させてくれると思うようになっています。
約1ヶ月ほど音沙汰のない好きな人からの連絡を待っています。
私の魂が3つほど大人に成長したら、その時が来る、と祈っています。
* テーマ&サブテーマ: Look for the exit - Not just look for but to find something -
(出口を見つける~そして次のとるべきアクションを考える~)
* 確認した聖書の節: コリント人への第1の手紙10章13節, マルコによる福音書第5章21-39節,
イザヤ書第30章:1-2節
イエスがまだ話しておられる間に、会堂司の家から人々が来て言った。「あなたの娘は亡くなりました。この上に先生を煩わす必要はないでしょう。
イエスはその言葉を聞き流して、会堂司に言われた。「恐れることはない、ただ信じなさい。」
(マタイによる福音書第5章35~36章)
* Bishopからのメッセージ;
悲しみよこんにちは、苦労よこんにちは、そしてパワーよこんにちは。
恐れることなく、ただ信じることのみ ~ 恐れることなく先へ進め、恐れることなく事をやれ。
「恐れ」というが最も人の成長や行動を停滞させるものである。したがって恐れを払い、どんどん積極果敢に前進をせよ。
しばらくの間、われわれは「出口」を探していた。しかし、今日からはそれに加えて、出口を見つけるために、また出口が見つかった時どうするか、何をするか、というのを考えてみる。
今、その出口は「イエス・キリスト」(=信仰)である、ということをわれわれは聖書の一節から確認できる。
神を信じ、そして自分のやってきたこと、自分のスキル、自分の思い、自分の気持ち、自分の努力を信じて前進せよ。
* 私のコメント;
この日のサービスは、しょっぱなからエキサイティングなものでした。Praise & Worship team によるWorship songが3曲ほど歌われた後、通常ならマスクワイヤが数曲歌を披露すんですが、この日は1曲のみ。早々にBishop Walkerが会堂へ姿を現し、シャウティング。これにあわせてミュージシャンが参堂者の気持ちをあおるように演奏。ベースとドラム、パーカッションのビートの聞いたサウンドに、一同いてもたってもいられず、そここでダンシング&タッピング。感極まった人は祭壇前に出てきてダンシング。(私も1回か2回やったことあります) Bishop WalkerもJunior Pastor/ Crayもタッピング。あげくのはてはミュージシャン・マスターのジョアンが踊りだす。こうなったらチャーチ一同みんなして、忘我の境地に入るのでした。。。。。
かれこれ1時間ちょっとくらいの時間、こういう状態。
トランス状態に入った何人かが泣きさけび、踊り狂い、両手をあげて神を賛賀する。こうなった時、私たちは、Holy Ghostがその人に降りてきた、といい、非常にいいことだと見ます。そう、まさに神が降りてきた、ことになるんです。最初は白Tシャツを着た男性、続いてそこここでHoly Ghostが降りてきた人が声を上げます。そうすると、Bishopがそばへ行き、おでこの部分に手をおいて、なにやら言います。さらに、Healingが必要な人がBishopに問いかけられ、手をあげ、そこにDeaconやDeaconess、PreachearやPastorがそばへより、耳元で神の言葉をシャウティングします。
と、まあ、日本人が傍からみると、まじないや土着信仰の宗教儀式みたいに映って引いてしまうでしょう。何人か日本人もクワイヤーに入りたいとチャーチを訪ねたり、また旅行のついでに立ち寄る人もいますが、これを見て皆なひくんでしょうな。
でも、こういう場面は、私が訪ね歩いたアメリカ国内のアフリカン・アメリカンチャーチには結構見られるんですね。そして、こういうHealing Serviceの上に、力強いゴスペル音楽があるんだ、って言うことも、日本でゴスペル音楽をやってる人間には知ってもらいたいところですね。
Bishop Walkerは、今日何かこういうHealing的なものを感じたのでしょう。そのために、早くに会堂へ姿を現し、シャウティングしたのかもしれません。人々が恍惚状態になるにしたがって、今日は神が降臨してきた、そこここで、その存在を知らしめている、と言ってました。Bishopいわくは、古式うるわしスタイルを踏襲している昔ながらのチャーチでは、こういう光景、サービスはよく見られるということでした。
確かに日本人だけでなく、こういう光景になじみのない人間にとっては、まさに何か怪しげな宗教儀式に思えるかもしれません。だけど、いまだに科学やテクノロジーでは解明されない、まじないや信仰による治癒、奇跡というのはあるように私は思いますね。日本では「笑いが癌を治す」ということで「笑い道」なるものもあって、講演活動をしている人もいますが、やはり人間最後は「気持ち」の持ち方、向け方なんだと思います。現実に、こうした信仰、サービス内容によって、病気が克服できたり、昇進に見合えたり、豪勢な家がロッテリーであたったり(NYCがオファーする)する人がいるし、自分はこのチャーチに来てから運気が、人生の運があがった、という人がいるんですから、無視したり笑い飛ばしたりできないものです。
やっぱり、「信じる者は救われる」というのが私の結論です。
このHealing Serviceの後、ようやくBishopのpastor's preaching、聖書の一節を呼んでテーマに関する内容が語られました。
今日のBISHOPの語るポイントはただ1つ、「信仰」と言えるでしょう。
ただシンプルに神様を信じる。疑いのない澄んだ瞳で神様を見上げる。
そして、私は、「信仰」は多くの心身の傷や病を癒してくれる、克服してくれる薬だと、言います。
恐らく過去の私は、幸せになることを怖がっていたものと思います。だから、いつもマイナスのことばかり思っていました。だけど、幸せになればなるほど責任も多くなってきて、もう1ランク上の幸せに到達するために更なるチャレンジがあるんです。そうして、人間は、肉体と魂のスキルをアップさせていくんです。「幸せ」というのは人の欲求に応じる物で、留まるところをしらないと思います。「幸せ」とは自分の心の充足だと思います。1つ心が満足すれば、またもう1ランク上の充足を求める。そうして自分のスキルをどんどんアップしていくものと思います。
私は、「こうならないかもしれない」ということを思いながら過ごしてきて、それが当たり前になってしまい、「幸せ」を貪欲に追求することを自分でストップさせていたような気がします。だから、自分の肉体・精神のスキルも成長しないままストップしたように感じます。
「こんな人になりたいな」と思う人の目には、澄んだ輝きとまっすぐ前を見ている視線があります。
疑いなく、魂の充足のために前進・チャレンジしている美しさです。
約20年にわたる自分自身の停滞、そして特に過去3年の間におこった好きな人とのけんか、別れ、人間関係の破壊、鬱など痛みを通じて、「信仰」に返ってみようと思い、特にこの2ヶ月、聖書の言葉に親しむことと、神様に祈る、ことに時間を費やしています。
神様に自分の思いを委ねる、祈る、信じる。自分の思いがすぐにかなわないと、あるいは、自分の祈ってることが果たして神様に通じているのかどうかといぶかしげになるとき、祈ったって無駄や、、と思ってしまうときがまだあります。でも、ぐっとこらえて、「その時」が来るまで耐えるように心のベクトルを修正しています。そうすると、少しずつ、気持ちが軽く、むやみに泣くことも少なくなりました。心が少しずつ強くなっているような感じです。
まだまだ忍耐、鍛錬が必要です。でもあきらめてしまえば、祈ったって無駄やと思ってしまえば、また元の木阿弥で、ブラックホールに舞い戻りです。
自分を成長させたいので、頑張って踏ん張っています。
この踏ん張りは、いつか必ず、自分の欲求を満足させてくれる、自己変革させてくれると思うようになっています。
約1ヶ月ほど音沙汰のない好きな人からの連絡を待っています。
私の魂が3つほど大人に成長したら、その時が来る、と祈っています。
2010年4月17日土曜日
Choir rehearsal on 4/8/2010
この日のリハーサルで、一部リードソロをとらせてもらいましたっ!えっへんっ!
LFTマスクワイヤーは、クワイヤー音楽を重視しており、ソロがメインの曲はあまり歌いません。ソロがある場合、Brooklyn本部では、CraigやRonaldのクワイヤーディレクター、R&B/ゴスペルシンガーであるアルトのSusuが中心になって歌っています。
この8日のリハーサルでは、[Grateful] (アルバム: 20/85 The Experience に収録)という曲で何人かソロが持ちまわりになりました。「So Grateful, I'm grateful, so grateful.....」というフレーズを繰り返すのですが、やっぱりアメリカの土壌は深い。どのクワイヤーメンバーをとっても、誰がソロでもいいくらいのレベルの歌唱力・表現力がありました。男女含め7名くらいが歌ったでしょうか。多くは最初テレながら前に出て歌ってましたが、ノッテくると、もう皆言い声なんですね。それだけで心にじんじんきちゃって涙がこぼれそうでした。その涙をぐっとこらえていたときに、クワイヤーディレクターから呼び出しをうけて、ガチガチ震え、涙にむせびながら歌いました。
だって心の琴線に触れてるときに、I'm soooo grateful,, SOOOOOO grateful..なんて歌いますからね。ほとんど絶叫でした。
音程はどうであれ、、、、、
一歩一歩、度胸と実力とテクニックとフィーリングとマインドセットです。
いつか、大舞台に立てる日を夢見て。。。
LFTマスクワイヤーは、クワイヤー音楽を重視しており、ソロがメインの曲はあまり歌いません。ソロがある場合、Brooklyn本部では、CraigやRonaldのクワイヤーディレクター、R&B/ゴスペルシンガーであるアルトのSusuが中心になって歌っています。
この8日のリハーサルでは、[Grateful] (アルバム: 20/85 The Experience に収録)という曲で何人かソロが持ちまわりになりました。「So Grateful, I'm grateful, so grateful.....」というフレーズを繰り返すのですが、やっぱりアメリカの土壌は深い。どのクワイヤーメンバーをとっても、誰がソロでもいいくらいのレベルの歌唱力・表現力がありました。男女含め7名くらいが歌ったでしょうか。多くは最初テレながら前に出て歌ってましたが、ノッテくると、もう皆言い声なんですね。それだけで心にじんじんきちゃって涙がこぼれそうでした。その涙をぐっとこらえていたときに、クワイヤーディレクターから呼び出しをうけて、ガチガチ震え、涙にむせびながら歌いました。
だって心の琴線に触れてるときに、I'm soooo grateful,, SOOOOOO grateful..なんて歌いますからね。ほとんど絶叫でした。
音程はどうであれ、、、、、
一歩一歩、度胸と実力とテクニックとフィーリングとマインドセットです。
いつか、大舞台に立てる日を夢見て。。。
Good friday evening service on 4/2/2010
4月2日(金)キリストの受難と死を記念する復活祭前の「聖金曜日」(=Good Friday)を祝う特別サービスがLFTチャーチで、静かに行われました。
午後7時過ぎ、チルドレンクワイヤーがアカペラ3曲を披露してサービスが始まり、続いてGospel singer/ Susuの独唱が披露されました。
これで参加者の気持ちが一気に高められ、選ばれた7名のSpeaker (Preacher)の、キリスト受難と死、復活に関するプレゼンテーションが行われました。
Speakerはそれぞれテーマをもって、聖書の中からキリスト受難・死・復活に関して述べられた数小節を引用しながら、独自の説教を展開していました。最後はElder Harrisがまとめのスピーチを行い、10時頃、サービスは終了しました。
引用された聖書の節:
ルカによる福音書23章32~46節、マタイによる福音書27章45~46節、ヨハネによる福音書19章26~30章
History - 2007/12/14 Beacon Theater concert
Hezekiah Walker Presents WLIB Anniversary Concert @ Beacon Theatre on Broadway, New York. わがパスター・HEZがプログラムをもつラジオ局主催のゴスペルコンサート。
Vicky Winnan, Try tribbett, John. P. Kee も出演した超豪華なコンサート。そのトリを務めたわが、LFT Mass Choir. ステージが広かったこともあり、また私の背が低かったこともあり、 はたまた前日のリハーサルに参加したこともあり、メンバーが私を 押し出してくれて、前列で歌ってしまいました。 背の順じゃなくて、キャリアや積極度に応じて立ち位置が決まるわがクワイヤー。 少しずつ、メンバーになじんできた感触を感じる今日このごろです。 コンサート終了後、観客の2人から、良かったとお褒めの言葉をもらったのは、やっぱり嬉しい!
2010年4月10日土曜日
Resurrection Sunday - April 4th, 2010
LFT Church は、イエス・キリストの復活を祝うResurrection Sundayのこの日、NY・ダウンタウンブルックリンにあるマリオットホテルで、恒例となった日曜のサービスを行いました。
11AMスタート。美しく着飾った3,000名近くの参加者が、マリオットホテル2Fの大会場に集合。パワフルなBishop Walkerの説教に一同興奮していました。
*スピーカー; Bishop Walker
*テーマ; Look for the exit
*確認した聖書の章節; コリント人への手紙10章13節、ヨハネによる福音書10章14~18節、
キリスト十字架磔刑から復活によせて、、、
父は、私が自分の命を捨てるから私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。誰かが私からそれを取り去るのではない。私が、自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである。(ヨハネの福音書10章17~18節)
*Bishopからのメッセージ;
解決法、出口が必ずあることに、神に感謝をする。
イエス・キリストは死ぬために生まれてくることを承知しており、私たちの罪のために死に向かい、私たちの罪をあらがなってくれた。イエス・キリストは私たち人類の完全なる生き様の例である。
神は、私たちのために苦しみに立ち向かってくれる。
神は私たちのために道を作ってくれ、導いてくれる。
すべては神に対する信仰による。信仰によることこそが、神との真の絆を結ぶ道なのである。
神は私たち一人一人の魂の成長のため、それぞれに目的や課題を持たせてこの世に送られた。従って、どんな困難な問題であっても解決策は必ず用意されてあり、その解決策を見出し課題を消化していくことで成長の過程を上っていくのである。
*私のコメント;
日本語でも人の犠牲の上に今の私たちの生がある、という言葉を聞いた事があります。
最近、私が日本でうけた道徳教育の内容にも聖書の中の言葉にも似たようなものがあるなという印象を強く受けます。「人類の徳教育」「人間の生き様教育」には国や宗教の別を超えて相通じるものがあるのではないかと感じます。
聖書の中で、イエスは私たちの罪のために十字架にかけられ、私たちの罪をとりはらったといいます。そのため私たちは罪に還ることなく、より正しい道を探求し日々努力していかなくてはならないと思います。
ちょっとの努力で結果が得られず不平不満をいい、人生を投げ捨ててしまう。限られた人生の時間、何と無駄に時間を過ごしていることかと思います。良くも悪くも問題解決には必ず道があります。解決法・出口があるということを信じてまっすぐ生きていきたいと思います。努力は、ちょっとの努力で実を結ぶもの・人もあれば、泣きそうになるくらい非情な努力をしなければならないこともあります。しかし、努力したものは必ず報われるんですね。
11AMスタート。美しく着飾った3,000名近くの参加者が、マリオットホテル2Fの大会場に集合。パワフルなBishop Walkerの説教に一同興奮していました。
*スピーカー; Bishop Walker
*テーマ; Look for the exit
*確認した聖書の章節; コリント人への手紙10章13節、ヨハネによる福音書10章14~18節、
キリスト十字架磔刑から復活によせて、、、
父は、私が自分の命を捨てるから私を愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。誰かが私からそれを取り去るのではない。私が、自分からそれを捨てるのである。私にはそれを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かった定めである。(ヨハネの福音書10章17~18節)
*Bishopからのメッセージ;
解決法、出口が必ずあることに、神に感謝をする。
イエス・キリストは死ぬために生まれてくることを承知しており、私たちの罪のために死に向かい、私たちの罪をあらがなってくれた。イエス・キリストは私たち人類の完全なる生き様の例である。
神は、私たちのために苦しみに立ち向かってくれる。
神は私たちのために道を作ってくれ、導いてくれる。
すべては神に対する信仰による。信仰によることこそが、神との真の絆を結ぶ道なのである。
神は私たち一人一人の魂の成長のため、それぞれに目的や課題を持たせてこの世に送られた。従って、どんな困難な問題であっても解決策は必ず用意されてあり、その解決策を見出し課題を消化していくことで成長の過程を上っていくのである。
*私のコメント;
日本語でも人の犠牲の上に今の私たちの生がある、という言葉を聞いた事があります。
最近、私が日本でうけた道徳教育の内容にも聖書の中の言葉にも似たようなものがあるなという印象を強く受けます。「人類の徳教育」「人間の生き様教育」には国や宗教の別を超えて相通じるものがあるのではないかと感じます。
聖書の中で、イエスは私たちの罪のために十字架にかけられ、私たちの罪をとりはらったといいます。そのため私たちは罪に還ることなく、より正しい道を探求し日々努力していかなくてはならないと思います。
ちょっとの努力で結果が得られず不平不満をいい、人生を投げ捨ててしまう。限られた人生の時間、何と無駄に時間を過ごしていることかと思います。良くも悪くも問題解決には必ず道があります。解決法・出口があるということを信じてまっすぐ生きていきたいと思います。努力は、ちょっとの努力で実を結ぶもの・人もあれば、泣きそうになるくらい非情な努力をしなければならないこともあります。しかし、努力したものは必ず報われるんですね。
2010年4月5日月曜日
2月4日 Prayer Vigil for Haiti のイベント記事が掲載されました
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