2010年5月2日日曜日

5月2日 日曜サービスからのメッセージ

*スピーカー; Bishop Walker
*テーマ; 成功への階段 (Step to success)
*確認した聖書の節; 箴言(しんげん)第1章1~14節、マタイによる福音書第18章1~7節、箴言第8章全節

ソロモンの箴言。
これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉を悟らせ、賢い行いと、正義と公正と公平の教訓をうけさせ、思慮の無い者に悟りを与え、若い者に知識とつつしみを得させるためでさる。賢い者はこれを聞いて学に進み、さとい者は指導を得る。(箴言第1章1~5章)
わが子よ、父の教訓を聞き、母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭上の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。(同8~9章)

*Bishopからのメッセージ;
成功への階段、我々は誰もがそこに到達するパワーと力をもっている。しかしそこに到達するには、知識のほかに、賢明さ・知恵が必要である。知識を多く持ち、学の高いものはたくさんいるが、知恵・懸命さを持っているものは少ないのである。知識と知恵は違うものである。知恵・賢明さというのは、何が正義で何が公正であるか、何が人間にとって正義であるか公正であるかを悟るものである。金を何億と稼ぐものはたくさんいる。高い学歴の者もたくさんいる。しかし、その中で何人の者が公正に、人間として賢く金を使い、知識をつかっているか。
たとえば、悪の道に誘われた時、それが自分にとっていいものであるか、人間として正しいものであるか感じ、考え、立ち止まらせるのが父や母から受けた教育である。(日本ではこれを躾といいます)
チャーチにおいては、父はPastor/Bishopとなり、クリスチャンにおいては神が父である。

*私のコメント;
よく言われることですが、知っていることと行うことは違い、知識と知恵は違うものです。
聖書を読めば読み込むほど、私が日本で受けた躾や道徳教育、社会教育とキリスト教的教えに相違はないと感じます。私が父母からうけた躾の内容は、聖書の「箴言」に言葉で記されています。聖書は教えを喩えをもって体系的に明文化したところに、聖書として、キリスト教としての勝利があったと思います。
さて、この躾、日本では「やってはいけない」と教わることが多く、自分の行動を制御しすぎるきらいもあり、自由奔放に自分の思いを貫き通している人を見るとうらやしかったことがあります。また、昨今は日本でも他人を思いやる教育も薄れたようで、自分本位さがまかり通っているように感じ、道徳教育なんて意味なかったんじゃん、と思う事もありました。さらに、ニューヨークに住んでみて、あらゆる人種の人とかかわることで、自分が受けた躾や道徳教育なんて逆に相手にいいようにされるものでしかないと感じてきました。
しかし、健康で無事に海外でも生活が送れてること、食べ物をかってアパートの家賃を払えるくらいには収入を得られる仕事があること、を思うと、まんざら培ってきた教育は間違いではなかったと思うようになりました。危険の背景を知って危険に挑戦するのと、何も知らずして危険にクビを突っ込むのとは違うんです。私は今まで、自分の受けてきた教育が人にいいように利用される、と感じてましたがそれは違い、賢く切り抜けるツールになっているように思います。
今までそうした教育や自分に自信がなかったがために、人からいいようにされる傾向にあったものと思います。転じて、全てが自分の生きる知恵になるんだという自信をもてば、誰が公正で公正でないか、誰が自分にとっていいか悪いか、中身のない人かそうでないか、災いになるものであるかどうか、というのがクリアに感じ取れるようになります。

アメリカのTVや報道を聞くにつけ、はなはだばかばかしいことが事件が結構たくさんあります。しかし、それらもちょっとした賢明さや知恵があれば避けられるもののように思います。また、そうした報道をうける側も知恵がなければ、報道に翻弄されるものです。一同右へ倣え、は日本だけでなく、アメリカにもたくさんあります。表舞台は華やかでも、じっくり裏を見る目をもてば、自分が周囲に翻弄されることも少なくなるような気がします。

自分が少し目覚めたとき、いつも同時にチャーチでジャスト・イン・タイムな説教を聴くのが不思議です。

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