* スピーカー: Bishop Walker
* テーマ&サブテーマ: Look for the exit - Not just look for but to find something -
(出口を見つける~そして次のとるべきアクションを考える~)
* 確認した聖書の節: コリント人への第1の手紙10章13節, マルコによる福音書第5章21-39節,
イザヤ書第30章:1-2節
イエスがまだ話しておられる間に、会堂司の家から人々が来て言った。「あなたの娘は亡くなりました。この上に先生を煩わす必要はないでしょう。
イエスはその言葉を聞き流して、会堂司に言われた。「恐れることはない、ただ信じなさい。」
(マタイによる福音書第5章35~36章)
* Bishopからのメッセージ;
悲しみよこんにちは、苦労よこんにちは、そしてパワーよこんにちは。
恐れることなく、ただ信じることのみ ~ 恐れることなく先へ進め、恐れることなく事をやれ。
「恐れ」というが最も人の成長や行動を停滞させるものである。したがって恐れを払い、どんどん積極果敢に前進をせよ。
しばらくの間、われわれは「出口」を探していた。しかし、今日からはそれに加えて、出口を見つけるために、また出口が見つかった時どうするか、何をするか、というのを考えてみる。
今、その出口は「イエス・キリスト」(=信仰)である、ということをわれわれは聖書の一節から確認できる。
神を信じ、そして自分のやってきたこと、自分のスキル、自分の思い、自分の気持ち、自分の努力を信じて前進せよ。
* 私のコメント;
この日のサービスは、しょっぱなからエキサイティングなものでした。Praise & Worship team によるWorship songが3曲ほど歌われた後、通常ならマスクワイヤが数曲歌を披露すんですが、この日は1曲のみ。早々にBishop Walkerが会堂へ姿を現し、シャウティング。これにあわせてミュージシャンが参堂者の気持ちをあおるように演奏。ベースとドラム、パーカッションのビートの聞いたサウンドに、一同いてもたってもいられず、そここでダンシング&タッピング。感極まった人は祭壇前に出てきてダンシング。(私も1回か2回やったことあります) Bishop WalkerもJunior Pastor/ Crayもタッピング。あげくのはてはミュージシャン・マスターのジョアンが踊りだす。こうなったらチャーチ一同みんなして、忘我の境地に入るのでした。。。。。
かれこれ1時間ちょっとくらいの時間、こういう状態。
トランス状態に入った何人かが泣きさけび、踊り狂い、両手をあげて神を賛賀する。こうなった時、私たちは、Holy Ghostがその人に降りてきた、といい、非常にいいことだと見ます。そう、まさに神が降りてきた、ことになるんです。最初は白Tシャツを着た男性、続いてそこここでHoly Ghostが降りてきた人が声を上げます。そうすると、Bishopがそばへ行き、おでこの部分に手をおいて、なにやら言います。さらに、Healingが必要な人がBishopに問いかけられ、手をあげ、そこにDeaconやDeaconess、PreachearやPastorがそばへより、耳元で神の言葉をシャウティングします。
と、まあ、日本人が傍からみると、まじないや土着信仰の宗教儀式みたいに映って引いてしまうでしょう。何人か日本人もクワイヤーに入りたいとチャーチを訪ねたり、また旅行のついでに立ち寄る人もいますが、これを見て皆なひくんでしょうな。
でも、こういう場面は、私が訪ね歩いたアメリカ国内のアフリカン・アメリカンチャーチには結構見られるんですね。そして、こういうHealing Serviceの上に、力強いゴスペル音楽があるんだ、って言うことも、日本でゴスペル音楽をやってる人間には知ってもらいたいところですね。
Bishop Walkerは、今日何かこういうHealing的なものを感じたのでしょう。そのために、早くに会堂へ姿を現し、シャウティングしたのかもしれません。人々が恍惚状態になるにしたがって、今日は神が降臨してきた、そこここで、その存在を知らしめている、と言ってました。Bishopいわくは、古式うるわしスタイルを踏襲している昔ながらのチャーチでは、こういう光景、サービスはよく見られるということでした。
確かに日本人だけでなく、こういう光景になじみのない人間にとっては、まさに何か怪しげな宗教儀式に思えるかもしれません。だけど、いまだに科学やテクノロジーでは解明されない、まじないや信仰による治癒、奇跡というのはあるように私は思いますね。日本では「笑いが癌を治す」ということで「笑い道」なるものもあって、講演活動をしている人もいますが、やはり人間最後は「気持ち」の持ち方、向け方なんだと思います。現実に、こうした信仰、サービス内容によって、病気が克服できたり、昇進に見合えたり、豪勢な家がロッテリーであたったり(NYCがオファーする)する人がいるし、自分はこのチャーチに来てから運気が、人生の運があがった、という人がいるんですから、無視したり笑い飛ばしたりできないものです。
やっぱり、「信じる者は救われる」というのが私の結論です。
このHealing Serviceの後、ようやくBishopのpastor's preaching、聖書の一節を呼んでテーマに関する内容が語られました。
今日のBISHOPの語るポイントはただ1つ、「信仰」と言えるでしょう。
ただシンプルに神様を信じる。疑いのない澄んだ瞳で神様を見上げる。
そして、私は、「信仰」は多くの心身の傷や病を癒してくれる、克服してくれる薬だと、言います。
恐らく過去の私は、幸せになることを怖がっていたものと思います。だから、いつもマイナスのことばかり思っていました。だけど、幸せになればなるほど責任も多くなってきて、もう1ランク上の幸せに到達するために更なるチャレンジがあるんです。そうして、人間は、肉体と魂のスキルをアップさせていくんです。「幸せ」というのは人の欲求に応じる物で、留まるところをしらないと思います。「幸せ」とは自分の心の充足だと思います。1つ心が満足すれば、またもう1ランク上の充足を求める。そうして自分のスキルをどんどんアップしていくものと思います。
私は、「こうならないかもしれない」ということを思いながら過ごしてきて、それが当たり前になってしまい、「幸せ」を貪欲に追求することを自分でストップさせていたような気がします。だから、自分の肉体・精神のスキルも成長しないままストップしたように感じます。
「こんな人になりたいな」と思う人の目には、澄んだ輝きとまっすぐ前を見ている視線があります。
疑いなく、魂の充足のために前進・チャレンジしている美しさです。
約20年にわたる自分自身の停滞、そして特に過去3年の間におこった好きな人とのけんか、別れ、人間関係の破壊、鬱など痛みを通じて、「信仰」に返ってみようと思い、特にこの2ヶ月、聖書の言葉に親しむことと、神様に祈る、ことに時間を費やしています。
神様に自分の思いを委ねる、祈る、信じる。自分の思いがすぐにかなわないと、あるいは、自分の祈ってることが果たして神様に通じているのかどうかといぶかしげになるとき、祈ったって無駄や、、と思ってしまうときがまだあります。でも、ぐっとこらえて、「その時」が来るまで耐えるように心のベクトルを修正しています。そうすると、少しずつ、気持ちが軽く、むやみに泣くことも少なくなりました。心が少しずつ強くなっているような感じです。
まだまだ忍耐、鍛錬が必要です。でもあきらめてしまえば、祈ったって無駄やと思ってしまえば、また元の木阿弥で、ブラックホールに舞い戻りです。
自分を成長させたいので、頑張って踏ん張っています。
この踏ん張りは、いつか必ず、自分の欲求を満足させてくれる、自己変革させてくれると思うようになっています。
約1ヶ月ほど音沙汰のない好きな人からの連絡を待っています。
私の魂が3つほど大人に成長したら、その時が来る、と祈っています。